無風日記

無からうまれた無太郎の無風な日々

【読書日記】殴り合う貴族たち(角川ソフィア文庫)繁田信一

うすーい感想です。

 

知られざる平安貴族の暴力性。近ごろは平安末期以降の武士たちの文化、というか、闘争に明け暮れ日常的に殺し合っていた姿が紹介されるのをよく目にするので、そちらは暴力的なイメージを持っていたが、意外にも貴族まで野蛮であったとは。平安貴族といえば雅で華やか、洗練された暮らしを想像しますが、実は頻繁に暴力沙汰を起こしていたということです。宮中の重要な儀式の最中に喧嘩したり、今の夜なら犯罪に当たる行為に加担して人を襲わせたり。本書タイトルで想像するより酷いこともしています。しかも、典拠として主に『小右記』に拠っていますが、それはつまりそれが書かれた時代だけでも何度も事件になっているということ。長い歴史の中では数えきれないほど暴力沙汰が起こっているということでしょう。いつ巻き込まれるかわからない、ともすれば命を落とすかもしれない、殺伐とした貴族社会であったことに驚きです。

しかし、大事な儀式中に喧嘩したりとか、人死がでたりとか、今ならすぐクビになりそうな事態でものうのうと貴族をやっていくことができるあたり、いくら位が高いとはいえゆるーい社会だなぁ、とも思いました。

【読書日記】風姿花伝(講談社学術文庫)

うすーい感想です。

 

最近ちょっと能に興味があるので、積んであった風姿花伝を手に取りました。

幽玄の美を追求し、能を完成させた世阿弥の秘伝書。そんなイメージだったので、とっつき難い、難解な書物だと思っていましたが、思いのほか具体的でわかりやすい。

成長に合わせてそれぞれの年頃にはどのような稽古をするとか、若さゆえの魅力があるがそれに頼り続けては芸は大成しないとか、「まことの花」のためにはどのような意識を持って稽古すべき、とか。

珍しいことが重要、ということを繰り返し述べているのは意外でした。意外性とか新鮮みとかマンネリを避けるとかそういうことだと理解しましたが、珍しいことで大衆にも目利きにも評価されるという興行主としての目線を重要視している。茶道とか武道とかの自己修練、求道的な態度の内向性とは異なり、観衆に開いた外向性の重視は、高い芸術性を持ちつつも人を楽しませる芸なのだという、ある種当たり前のことにきづかされました。

増える植物

どうも、無太郎です。すっかりご無沙汰しています。

先日のこと、親子3人で奈良は桜井、安倍文殊院に参拝してまいりました。その帰り、「まほろばキッチン」なるJAの直売所によりましたところ、地物野菜などが色々売っており、楽しく買い物しました。さて帰途につくか、と帰りかけたところ、植木コーナーを発見。ふらふらと引き寄せられ、眺めていると、「お〜い、お茶」の木が…  お茶の木か。面白そうだと、つい手にしてしまいました。こうなると勢いがついてしまい、他にも物色。山もみじの鉢とローズマリーの苗も買うことになりました。

いやぁ、もみじの木、欲しかったんですよ。秋の紅葉はもちろん、春の新緑も素敵じゃないですか。ローズマリーは以前枯らしてしまったことがあるので再挑戦です。良い香りに包まれた素敵な暮らしを夢見て…(ちなみに義母からもらったミントが水挿しで発根してたのでポットに移したばかりです。)

と、出先での勢いに任せて買ってしまいましたが、狭いベランダ、しかも1階であまり日当たりよくないので、上手く育てられるか、乞うご期待であります。

いつかの海

時折ふと海を眺めに行きたくなる。広がる海原と青空をぼんやり見つめ、ただ座る。日々の憂さが晴れていく。この時のために生きている、そんな気持ちになる。また明日から元気にいきていける、と。

憂いを忘れるために日々を生きて、生きることで憂さを溜め込んでいく、とは本末転倒のような気もするし、それこそが生きることの本質であるような気もする。

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PENTAX Super-Takumar 1:3.5/35 /Lomography Earl Grey 100

蕾が開く

昨日、スーパーのお花のコーナーで蕾のたくさんついたモクレンの枝がお手頃価格で売っていたので、妻が買い求めた。

買ったときは蕾もまだ縮こまっているように見えたが、帰宅して数時間のうちにどんどん綻びはじめ、一夜開けてみると多くが花開いていた。

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花の気配が遠かった蕾たちが、みるみるうちに開いて美を振り撒いているのを見ると神秘的のものを感じる。

鼻が…

鼻の調子が悪くて鼻水やくしゃみが出る。

他は体調悪いところもなく、何だろうかと訝っていたが、ふとある可能性に思い至った。

そう、花粉症ですよ。

もしかしてついに時が来てしまったのか、と。まだ確信を得たわけではないが、もしそうなのだとしたら嫌だなぁ。

しょうもないご報告でした…

名付け

名付けというものは難しいものだなぁ、という話。

さりげなくブログタイトルを変えてみた。読者の方はいらっしゃらないと思うのでどうでもいい事ではありますが。

で、本題。今までは無太郎の日記、と適当なタイトルだったわけだが、名前がそのまま入っているのが今ひとつに思えたので、いっちょ気の利いたタイトルにしてやるか、と思い立った。しかし、気の利いた、とは何か。わからん。ということで、古典の日記文学とか書物の名前を参考にしてみようとするも、よい案は浮かばず。なので、〜日記とすることにして、前半は語呂よくて、かつ何となく名前と繋がりを感じるような言葉、と考えて無風にした。本当にしょうもない日記なので、大したことも起こらず無風な日々ということで悪くないのではなかろうか。

と、悩んだ割になんだか掴みどころもないようなタイトルになってしまい、名付けとは難しい、自分にはセンスがないなぁ、と思いつつ、我が子に名前をつけた時のことを思い出していた。

名は体を表すというからには良い名前にしたい。しかし名前負けしては辛かろう。風情のある名前が良い。いや、格好つけ過ぎだ。呼びやすくて親しみの湧く名にしよう。この漢字を使いたい。男女どちらでも馴染むのがいいのでは。

色々意見が出て、半年ほど毎日ああでもないこうでもないと夫婦で話した。性別がわかって、3Dエコーで顔立ちがなんとなく見えてからは、ある程度絞り込んだが、一向に最終案にまとまらなかった。しかし、ある時次々に列挙する中で、ポロッと出た案がとても呼びやすくて親しみの湧く名前で、一つまた一つと浮かんでは消える案の中で最後まで生き残った。なんだかペンギンっぽいイメージの名前だからマスコットはペンギンにしよう、なんて言いながら。

最終的には凝った名前ではなく、親しみやすさをとったわけだが、数々の候補の中でたまたま生まれた偶然の賜物のようなものである。狙っても中々ピタッとはまる名をつけるのは難しいのだ。

ちなみに我が子のマスコットは顔の丸みから結局くまさんになりましたとさ。